羽根田利夫氏訪問記

 1985年(昭和60年)12月27日の午後、K・Hさんに連れられて私と仲間たち合計8人は大挙して、羽根田利夫さんのお宅を訪ねました。
 最初に、羽根田さんの敷地に変わった形の石塔があるのに気が付きました。これは、羽根田・カンポス新彗星発見を祝し記念とした「発見記念碑」で、羽根田さんの御家族が建立されたものと聞きました。記念碑の製作にあたった石材屋さんは羽根田さんのご親戚という事で、それはさぞかし誇らしく嬉しいお仕事だった事でしょう。

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      ハネダ・カンポス新彗星発見記念碑
      羽根田さん宅にて
 
 発見記念碑を横目に見ながら羽根田さんのお宅にお邪魔すると、羽根田さんのお部屋の隣りの部屋に、一台の天体望遠鏡が置いてあるのが真っ先に目に付きました。これが、羽根田・カンポス彗星を発見した記念すべき口径85mm、焦点距離720mmの屈折望遠鏡でした。本当にとても小さな鏡筒に、これまた小さくうっすらと「ハネダ カンポス彗星 発見 1978.9.1」と書かれていたのが印象的でした。

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    新彗星を発見した望遠鏡 羽根田さん宅にて
 
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    新彗星を発見した望遠鏡 
     写真提供/羽根田利夫氏
 
 この望遠鏡は、レンズが特殊光学研究所製で苗村氏と木辺氏の合作品という名品で、鏡筒部分は羽根田さんの自作品と言うことでした。接眼部は日本光学製の人工衛星観測用アイピースで27倍、これに五藤光学の人工衛星観測用ダハプリズムが装備されて正立像が得られるようになっていました。ファインダーは円環を2対組み合わせた独特の物で、羽根田さんは照門と呼んでいました。上記の望遠鏡の写真から、望遠鏡に照門が付いている事が判ります。新彗星の発見後、羽根田さんは彗星探索に使う機種を双眼鏡に変更したため、発見時に用いた望遠鏡は引退し、部屋に置かれていたのでした。但し高橋製作所製の架台はそのまま双眼鏡で使用中とのことで、この記念すべき望遠鏡は仮経緯台に載せられていました。写真の右下には、木枠で組まれた架台接続部と思われる物が写っていますが、これについては羽根田さんに質問しなかったため、今もって謎のままです。
 その後、羽根田さんのお部屋でこたつを囲み、羽根田さんのお話が始まりました。彗星発見に至るまでの御苦労や発見時の状況などを、殆ど問わず語りに説明して下さいました。これらを羽根田さんの著作「ハネダ・カンポス彗星発見記(週刊読売第三回ノンフィクション受賞作品)」から彗星発見の日を顧みますと、大体は以下のような事だったようです。
 1978年の8月は、この一帯は猛暑で雨が殆ど降らず作物も萎れてしまい、羽根田さんは作物に何度となく水撒きをしていました。そうした8月も終わりに近い30日、待望の雷雨が訪れて一息ついたが、その後はすっかり天候が崩れてしまったのです。9月1日は日中晴れ間もあったが夜は曇りがちで、ところどころ僅かに晴れている程度で彗星捜索には不向きの日でした。羽根田さんは観測を諦めて部屋で読書をしていました。羽根田さんの傍らには、羽根田さんの可愛がっていた愛犬コロちゃんが、両手に顎を乗せて、長々と寝そべっていました。9月1日と言えば残暑も厳しく、犬にとっては暑かったのかもしれません。コロちゃんは、ポインター系の雑種で雌犬でした。元々は猟犬なので、鼠を良く取る犬だったそうです。コロちゃんはいつも必ず羽根田さんが観測に行くときには喜んで付いて来て、観測が終わるまで1時間でも2時間でもじっと待っているのでした。羽根田さんのお話では、コロちゃんには犬小屋がなかったため、観測所を自分の家のように思っていたような節があったとの事でした。

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        天帝のお使い姫コロちゃん
        写真提供/羽根田利夫氏

 その日、読書をしていた羽根田さんがたまたま立ちあがった時、コロちゃんは羽根田さんがいつものように観測に行くと思ったのか、しきりに尻尾を振って、クーンクーンと鼻を鳴らして羽根田さんの顔を見上げたと言います。羽根田さんは曇っているので気乗りしなかったが、コロちゃんに催促されてしぶしぶ観測所に向かったのです。そうして羽根田さんは雲の隙間をあちこち捜索したところ、けんびきょう座に謎の星雲状天体を発見しました。これが後に羽根田・カンポス彗星と呼ばれることになった新彗星だったのです。羽根田・カンポス彗星の発見には、羽根田さんの長年の御努力もさることながら、愛犬コロちゃんの存在が大きかったのです。
 しかし残念な事に、愛犬コロちゃんは昭和55年(1980年)6月6日に乳癌のため息を引き取りました。愛犬の死を悲しんだ羽根田さんはねんごろに葬り、御家族の方といっしょに墓石まで建立されたのでした。羽根田さんのコロちゃんへの思いはなお強く、話題は次第にコロちゃんへと移ってゆきました。羽根田さんはお話を止めて、コロちゃんの物語を見せて下さいました。題名は残念ながら忘れてしまいましたが、それは羽根田さんが新彗星発見に至るまでの実話で、子供でも理解できるようにコロちゃんを主体として物語風に描かれたものでした。物語は幻灯と紙芝居を併せたような感じで、スライド映写機を用いた幻灯風紙芝居でした。羽根田さんが描かれたと思われる絵も非常に良くできていました。しかもテープレコーダーからは羽根田さんの語りと、日本昔話風のほのぼのとしたバックミュージックが流れるというもので、全体で20分弱位で纏められていました。改めて、羽根田さんの多才さに驚いたものです。当時、こんなに素晴らしい作品を羽根田さんのお宅に眠らせておくのは非常に勿体無いと、思ったほどでした。羽根田さんのお話では、この紙芝居はいくつか作ったとのことで、4〜5種類置いてあったような記憶があります。たまに、小さな子供さんから「紙芝居をやってー」とせがまれて上映するとの事ですが、小さい子は途中で飽きてしまい、何処かに行ってしまう事が多いと仰られていました。
 前述の通り、羽根田さんは新彗星を発見するまでに約40年間という時間を要したわけですが、新彗星の発見について、羽根田さんは次のように仰られていました。「新彗星を発見するには、捜索者のたゆまぬ努力が必要です。しかし、新彗星発見は努力だけではできません。努力は必要ですが、運というものが大きく関係します。この「運」をさずけてくれたのが、コロなのです。」 羽根田さんに当に生涯の「運」を授けてくれた一匹の犬、コロちゃんを亡くしてしまった悲しみは尽きないご様子でした。
 羽根田・カンポス彗星は発見後の観測から、周期が約6年の木星族短周期彗星と計算され、最初の近日点通過は昭和59年の末と計算されました。しかし回帰は確認されず、私が羽根田さんを訪問した時点では、近日点通過から約1年が経過した頃でした。これについて羽根田さんは、「木星によって軌道が大きく変わってしまったか、宇宙のかなたに飛び去ってしまったのでしょう。」と、寂しそうに語られました。
 なお、羽根田・カンポス彗星はその後現在に至るまで回帰が全く検出されていませんが、この理由については、羽根田さんが危惧されたような彗星軌道の狂いによるものではなく、羽根田・カンポス彗星は本来非常に暗い彗星であり、1978年の発見時にはバーストを起こして何等級も明るくなっていた可能性が高いと、何人かの研究者から後日聞きました。
  羽根田さんは、羽根田・カンポス彗星の発見直後には新聞社、雑誌社から沢山の取材攻勢にあったそうです。発見後しばらくして、NHKテレビで放映されていた「お達者クラブ」に出演の打診が寄せられました。彗星発見者として世界で最高齢という羽根田さんを、NHKが逃すはずがありません。お達者クラブという番組は、元気に活躍されている高齢者の姿を伝える朝の番組で、1980年から何年間か続いた番組でした。しかし羽根田さんは、取材攻勢にうんざりされたためか、「テレビなんか出たくないので...」と、謝絶されたそうです。そうするとNHKは、「御家族にも出演頂きますから是非...」と切り返してきたそうです。この返答に、御家族思いの羽根田さんは非常に困ってしまったそうです。「せっかくテレビに出られる筈だったのに、おじいさんが断っちゃった。と家族をがっかりさせるわけにはゆかず、家族を番組に必ず出演させるという条件を付けて、気乗りしなかったがしぶしぶ出演を受けた」とお話をされていました。
 羽根田さんは、このWebサイトにも掲載したカラー写真約10枚と、「ハネダ・カンポス彗星発見記(週刊読売版)」その他幾つかの資料コピーを準備下さっていて、茶封筒に入れて訪問した8人全員に下さいました。
 羽根田さんからお話を伺った後、羽根田さんは観測所を案内して下さいました。観測所は羽根田さんのお宅から200メートル程度離れた所にあり、羽根田さんを先頭に皆で歩いて行きました。

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        羽根田さんの観測所全景
 手前の観測所にて、羽根田・カンポス彗星D/1978 R1を発見

 羽根田さんの観測所は、田んぼの小高い土手の斜面に位置していて、2棟ありました。手前の観測所は昭和52年(1977)7月完成。この観測所で、羽根田・カンポス彗星が発見されました。観測所はベニヤ板製で、羽根田さんの手作りでした。製作費は僅か3万円。正面には「天文台」という表札が掛かっていました。この観測所は小ぶりながら非常に機能的に出来ており、この写真の右側上部と側面が開き、観測所全体が回転できる構造で、東西南北360°の観測が可能な構造でした。建屋の床下にはレールが円形に取り付けられ、コンクリの基礎に取り付けられた戸車に載せられていました。開閉口にはバランスウエイトが接続されており、開閉はスムーズでした。写真では、観測所左下に分銅状のバランスウエイトが見えます。このバランスウエイトはジュースの缶に金属を流し込んだもので、これも羽根田さんの手作り品でした。出入り口は写真では判り難いですが、表札の左下が扉となっています。観測機器は、当初8.5cm屈折が据付けられていましたが、訪問時には中型双眼鏡に代替りしていました。奥の観測所は手前の観測所とほぼ同時期に造られたもので、10cm屈折赤道儀が入っていました。観測所の左側には支柱が設置されていますが、これは当初無かったが後に取り付けたということでした。8.5cmを使っていた時代、ある強風の日に観測所が右手3メートル下の田んぼに丸ごと吹き飛ばされるというアクシデントがあったため、これらの支柱を設置したそうです。このときは幸い、中の望遠鏡は無傷だったと、羽根田さんは述懐されていました。

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      羽根田さんの新しい彗星探索機器
         コーワ製 15×80双眼鏡

 羽根田さんは観測所を開けて、中の観測機器を見せてくださいました。手前の観測所には、8.5cm屈折に替わって、新しくコーワ製の15×80双眼鏡が鎮座していました。この双眼鏡にも、羽根田さんが照門と呼んでおられた円環ファインダーが装備されていました。架台は、以前から使用されていた高橋製作所製の赤道儀がそのまま用いられていました。羽根田さんは8.5cm時代から、この赤道儀は立ててバランスウエイトを外し、経緯台として使用しておられました。観測所の内部には、厚紙で裏打ちされた星図や、「メシエ天体カタログ」、寒暖計などが見えます。
 
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 15×80双眼鏡の入った観測所でお話をされる
 羽根田利夫さん

 羽根田さんの彗星観測は、20時半〜21時半頃か、または2時半〜3時半頃に行なうことが多いという事でした。お体に無理をしないよう観測を続けていると、お話されていました。

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     「天文台」で説明をされる羽根田利夫さん

 
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    カートン製スーパーノバ赤道儀に載せられた
    高橋製フローライトを操作する羽根田利夫さん

 次に羽根田さんは、奥の観測所を開けて見せて下さいました。奥の観測所建屋は手前側とは異なり、ゴロゴロと観測所全体が手前の観測所寄りにスライドする形式で、望遠鏡の格納庫でした。ここには、高橋製作所製10cmフローライトが設置されており、架台はカートン光学製のスーパーノバ赤道儀でした。
 この頃はハレー彗星が接近している時で、近所の子供たちが羽根田さんの所へ「ハレー彗星が見たい。」とやって来るので、羽根田さんはこれらの望遠鏡でハレー彗星を見せてあげているとの事でした。
 一通り観測所を説明してくださった羽根田さんが、最後に私達を案内してくださったのは「コロちゃんのお墓」でした。 

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 コロちゃんのお墓に向かう羽根田利夫さん。羽根田さんのすぐ右側に墓石が写っています。
 左側の男性は、この訪問で大変お世話になりました、
福島県立原町高等学校教諭の白瀬先生。

 田んぼのあぜ道をてくてくと歩いてゆくと、きれいに飾られたお墓がありました。
 
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            「名犬コロ之墓」
 ウェブ上で同所の写真をアップされている方がおられますが、これを拝見しますと背後の林は無くなり、墓石碑文も風雪にさらされて薄くなり、あれから随分と時が流れたことを感じます。


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 コロちゃんのお墓碑文/写真提供 羽根田利夫氏
  
 
 羽根田さんは最後に、にこやかな表情で、静かに、次のように結ばれました。
「ずっと努力をしていれば、いつの日か、こんな事が起こる事もあるという、一人の老人の話として聞いてもらえれば幸いです。」 
羽根田さんのお優しい眼差しと私の目が合いました。何時の間にか太陽は傾き、冬の西日が我々を優しく照らしていました。
 羽根田さんの御姿は、こうして私の心の奥深くに刻み込まれる事となったのです。

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  羽根田利夫さんと手造り観測所/写真提供 羽根田利夫氏(撮影 羽根田二三男氏)

 羽根田さんの観測所は、羽根田さんの身長とぴたりと合っている事がよく判ります。そして、この観測所が如何に機能的に出来ているかが良く判る写真です。私の撮影した観測所全景の写真と比べてみますと、コンクリ基礎の四角の部分を基準に約45°回転していて、全方位サーチできることが理解できます。天板が後方に開き、側板はバランスウェイトと繋がってするりと下に落ちる構造です。
 この写真は羽根田二三男さんに撮ってもらったと、羽根田さんが話されていました。 


参考文献
私の新彗星発見記 所載 ハネダ・カンポス彗星発見記 羽根田利夫 p1‐13(1979) 誠文堂新光社
週刊読売 昭和54年10月28日号所載 ハネダ・カンポス彗星発見記 羽根田利夫 p44-57(1979)
週刊朝日 昭和53年9月 p154-155(1978)
 
                                               平成19年9月1日21時24分作成
                                               平成20年9月1日21時25分修正
                                               平成30年9月1日21時25分修正追記

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