新京成旧型車の思い出 徒然なるままに
「新京成旧型車の思い出」とは言っても、私が新京成に毎日乗車していたのは昭和63年4月から平成2年3月までのほんの2年間であった。旧型の編成は僅か8両編成が3本、残念ながら多彩な新京成旧型車の大半が引退した後の最末期であった。100型など花形の活躍については、他の詳しい方のウェブサイトを参照頂くとして、ここでは私の見た新京成旧型車末期の思い出について、徒然なるままに駄文を費やしてみたい。
私が新京成線に初めて乗車したのは、昭和62年の2月であった。新津田沼駅で列車を待っていると、クリーム色の片開き3扉、グロベンを載せた非冷房車がしずしずとやって来た。車番は「モハ800」とあり、予備知識の無い私は「この車は吊掛車か!」と思ったものだ。しかし列車が走り出すと、意外にもカルダン車であった。その後、昼間に何回か新京成に乗車する機会があったが、この800系か習志野タヌキの8000系がやって来る事が多く、田舎電車としては全く似つかわしくない最新鋭VVVF8800系も見られた。800系はこの当時、非冷房電制なしの自動ブレーキ車で、冷改、HSC-D化される前だった。屋根上には新京成が一時期好んで使ったというグロベンが載っていた。800系は嘗て首都圏私鉄各社に散見された、性能の一段落ちるカルダン車だった。
そんな事があった後の昭和63年の4月上旬から、私は東武野田線の大和田駅から新京成線の北習志野駅まで毎日長時間の乗車をする事となった。その初日となった日、私は早朝の東武野田線大和田駅からデッカー3000系を堪能し、柏から5000系に乗り継ぎ、延々吊り掛け車で鎌ヶ谷駅までやってきた。この当時はまだ、新鎌ヶ谷駅という便利な駅が無く、東武野田線から新京成線に乗り替えるには、鎌ヶ谷駅から初富駅まで12分くらい歩かねばならなかった。イトーヨーカドーの横を通り抜けて踏切を渡ると昔風駅舎の初富駅があり、まだ自動改札化もされていなかった。改札を通って構内踏切を渡ると、丁度先ほど渡ったヨーカドー横の踏切遮断機が「カンカンカンカン」と降り始めた。私は殆ど気に留めていなかったのであるが、突如、見なれぬ小豆色の古い電車が「タタン、タタン、タタン、ココン」と軽いジョイント音を立てながら鎌ヶ谷大仏駅方面のカーブから現れた。「おおっ!」と思ったのは言うまでもない。列車は「ジェェーーーージュリジュリキキキー」と鋳鉄シューブレーキの音を軋ませて停車した。車番は「200」。これこそは吊り掛け車に間違い無いと思った。扉は800型よりも軽い感じで開き、若干の乗客の乗せた後、列車は発車していった。そして果たして、あずき色の列車は「グオーーー」と、期待通りの重厚な吊り掛け音を響かせながら、北初富駅に向かって去っていった。(おおー!)と私は歓喜したのは言うまでもない。
現在のようにインターネットなど無い時代、中小私鉄の車輌情報は現在と比べると本当に隔世の感があるほど少なかった。その分だけ、苦労して現地に行って初めて判明する事実も現在よりもずっと本質的で、それだけ驚きや感動、喜びも現在とは比べ物にならないほど大きかったものだ。
新京成電鉄の奥深い出自を当時全く知らなかったこともあり、私は新京成を、「新興住宅地を走る、歴史のない鉄道」と内心軽く見ていた節があった。しかしこの日から、新京成電鉄を「吊り掛け車も在籍している歴史ある鉄道」として認識するようになった。日によっては、大和田駅から北習志野駅まで全て吊り掛け車で乗り通すこともあるという、長時間の苦労を完全にふっ飛ばしてお釣りが来るような、今となっては夢のようなマニヤ冥利を満喫する毎日が始まった。毎日、東武野田線鎌ヶ谷駅に8:00到着の5000系列車で長時間乗車した東武線を後にし、初富駅まで歩くと8:11頃となった。ホームで京成津田沼行き列車を待っていると、前述の松戸行き列車が入線してくる、というパターンだった。この列車は確か、8:12発の松戸行き8両のスジで、3日に2度くらいは旧型が入る旧型率の高いスジだった。
現在、新京成線の駅のホームの時刻表を眺めると。時刻の横に小さく●印が打ってある列車は6両編成だが、この当時は逆で、●印は8両のスジだった。新京成に走っていた吊り掛け旧型車は末期は殆どが8両編成で、私が利用していた頃に残っていた3編成も全て8両編成だった。このため、●印の列車は旧型車がやって来るかもしれないという、私には非常に魅惑的な●印に写った。もっとも、この頃の旧型吊り掛け車は朝ラッシュ時のみ働く予備車的な存在で、魅惑的な●印は朝の列車に限られた。但し、朝方●印の付いた時刻の列車なら、どれも平等に旧型にめぐり合えるということはもちろんなく、旧型が6〜7割くらいの確率で入る●印列車と、2〜3割くらいで来る●印列車、そして、一番多いのが旧型が来ない●印列車であった。この旧型が来ない列車は、運用が朝ラッシュだけで終わらず終日運用されるスジであった。朝ラッシュ後にくぬぎ山止まりとなるスジのみが、旧型のやって来る可能性があるスジだった。
しかし旧型車3本時代にも、ごくまれに旧型が日中運転されることがあった。一度、平日の16時頃、橋上の北習志野駅から列車に乗ろうとして改札口を通ったら、駅下から「グオーーー」と吊り掛けモーターの音が聞えてきて、「うわっ! 夕方なのに旧型が運用に入っている!」と焦ったことがあった。急いで階段を降りたが列車を見ることもできず、後の祭だった。また、同じくこの頃には旧型車が北総線に乗り入れることはもうなかったが、ある日、初富駅のホームから遠方の北総線高架をぼんやり眺めていたら、旧型車が千葉ニュータウン中央駅に向かって走っていくのを一度だけ目撃した事がある。いつもはステンレス車が走っていた記憶があるので、いつもはゲンコツあたりの運用だったと思われるが、おそらく車輌不調による代走だったと推測される。
私はいつも、初富駅に8:11頃到着するので、初富発8:15の京成津田沼行き列車に乗っていた。この列車は6両のスジで、車型は習志野タヌキ主体の運用。6両なので旧型は全く来なかった。その次の列車は8:25発の●印京成津田沼行き列車だったが、この列車を使うと遅刻しそうになるので、私は当初全く使わなかった。この列車でやって来る友人の話によれば、旧型車がやって来る率がそこそこ高いということを聞いたので、その後は、余裕がある場合には極力8:25発の列車に乗るようにした。運良く旧型が来れば、前述のように大和田から北習志野まで、全て吊り掛け車乗り通しという恩恵に与かることができた。この8:25発のスジは、旧型が5割くらいの確率でやって来るスジだった。
私が新京成を利用していた昭和末期から平成はじめにかけての時代、新京成線は既に殆ど新性能車で運用されていたが、ダイヤのスジは現行より寝た旧性能ダイヤのままで、スピードは遅かった。それもそのはず、吊り掛け旧型車と最新型VVVF8800系が同じスジで走るという、今では信じられないような路線だったからだ。このため8800系は、現在よりずっと低加速、低減速で運転されていた。8800系のブレーキは現在より浅く、回生率も高かったであろう。雨天時の800系空転は当時ひどく、小雨が降ると新京成線は少遅れになることも多かったが、旧型車は重いせいか、雨でも空転することは殆ど無かった。殆どの車両が新性能車に置き換えられた後の新京成線、それでも運転時分は旧性能ダイヤのままで、旧型車もそれほど無理して走っている感じはなかったが、ダイヤが乱れて回復運転を試みている場合には、なかなか良い走りっぷりだった。新京成線は駅間距離が短く、加速の悪い旧型車はスピードが出た頃には駅に着いてしまう。回復運転の極端な例では、駅到着間際までフルノッチで力走し、ノッチを入れたままブレーキハンドルを引いて数秒おいてジャーッとブレーキが掛かり、モーター音が下がってきてから、そこでノッチをoffにするという勇ましい運ちゃんもいた。そんな運転でなくとも、吊掛車はそこそこスピードが出るときがあり、旧型の列車のみ結構縦揺れしたものだった。車端部の座席は特によく揺れて、朝の乗客皆で(ボン・ボン・ボン)と、座席に座った乗客皆同じリズムで上下飛び跳ね運動となったのも新京成旧型車の楽しい思い出である。
(未完)
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