東武鉄道3000系の思い出 徒然なるままに

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 東武野田線沿線に長く住んでいた筆者は、東武鉄道3000系には本当によく乗った。
 東武3000系は私の鉄道趣味の原点であるので、読者には全く面白くない内容であるが、徒然なるままに長文を駄してみたい。

(東武3000系と私 マニヤとしての助走区間)
 私が鉄道趣味をまともに始めたのは昭和59年からであるが、多くの人がそうであるように、鉄道趣味が始まるまでにはそれなりに助走期間があり、これは私の場合かなり長かった。
 昭和51年から、私は週に1回東武野田線を利用するようになったが、この頃の東武野田線は七光台研修区最後の半鋼製車53系が更新された直後で、東武野田線は3000系4両編成ばかりがやって来る、何の変哲も無く、変化に乏しい路線だった。素人の私は、当然ながら全く関心を示すことなく毎週3000系に乗っていた。しかし翌年の昭和52年、そんな野田線に変化が訪れた。一部の3000系が6両化されたのに伴い、少数の8000系冷房車が配置されたのである。8000系は冷房の付いた電車なので、勿論素人でも車種の違いは気が付いたが、カルダン車か吊掛車かなどということは全く関心の範囲外だった。

 昭和52年の秋に四国旅行をしたが、東京から新幹線で岡山に行き、宇高連絡船を使うルートで行ったため、国鉄宇野線を利用した。この時乗車した湘南色80系電車は素人目にもいかにも古く、いつも目にしていた東北線の湘南色115系とは雰囲気がまるで違い、特にモーターの音が重低音で古く感じられ、道中では宇高連絡船に次いで印象に残った。そうして帰ってきて直後の日曜に乗った東武野田線の3000系電車、「あっ! 宇野線の古い電車の音と同じだ!」と、この時偶然に気が付いたのであった。それまで私は、東武3000系に何十回も乗っていながら、3000系電車の音などは完全に右から左に抜けるだけだったのである。
 この時から、東武野田線を走る3000系と8000系は、冷房が付いているかそうでないかという違いだけではなく、両者はモーターの音が全く違うという事を素人ながら明確に認識するようになった。しかし自分にとって、電車として乗車機会が圧倒的に多いのが3000系であったため、東武野田線で珍しい8000系に乗れると何だか嬉しく、カルダン車のモーター音と下枠交差型のパンタグラフ、CP音も格好良かった。
 
 余談であるが、昭和52年に野田線に配属された8000系はのろのろ運転されていた。モーター音は小さく、加速も良くなかった。伊勢崎線や東上線の8000系のように、どうしてさっそうと走らないのかと感じたものだ。今から思えば、これは運転上の操作ではなく、8000系を3000系の性能に合わせる為に出力カットであるとか、何か機器的にいじられていたのかもしれない。これに対し、たまに乗車した国鉄京浜東北線電車(103系)や東北線電車(115系)などは、停車中には床下から「フォーン」という抵抗器冷却ファンの音がして、いかにも新鋭電車の雰囲気があった。国鉄新性能電車の発電ブレーキ音は特に格好良かった。東武8000系は床下抵抗器のファンや、発電ブレーキも装備していない車であるが、冷房付きカルダン車の乗り心地は流石に素晴らしく、また、車内に取り付けてある銘版も「日本車輌」や「ナニワ工機」など格好良いものばかりで、3000系の地味な銘版「津覇車輌」より色気があった。この頃私は野田線に乗るときには、8000系が来ないものかと待ちわびたものであった。意に反して3000系が来ることが多かったのであるが、外れのような気分がしたものだった。贅沢にも、東武野田線には吊掛車が余りにもありふれていて、カルダン車の8000系は文句無しにエースであった。当時はまだ、首都圏の国鉄線や私鉄線にはこんな路線が幾つもあった。
 
 このようにして、素人ながら偶然にも吊掛車とカルダン車の区別ができるようになったが、鉄道マニヤになった訳でもなく、東武3000系の独特の走行音は乗車する度に気にしつつ、それ以上調べる事もなかった。
 
 昭和53年だったと思うが、大宮公園駅で下り列車を待っていると、やって来たのは3101F。たまたま先頭車に乗った。車内の銘版は「東京 津覇車輌 昭和39年」とあった。昭和39年! 3000系でこんなのは初めてだった。モハ3101は吊掛音を唸らせながら発車し、見沼代用水西縁(にしべり)の古い小さな鉄橋を「ゴー」と通過し、その直前に運転手が珍しく「ブー」と警笛を吹いた。東武野田線で警笛を吹くのは非常に珍しく、3000系の警笛をその時初めて聞いた。ハーモニカと豆腐屋さんのラッパを同時に吹いたような音で、国鉄電車の警笛と比べると非常に格好良くない警笛音で、音その物も小さかった。それでも、東武3000系の警笛はこんな音なのかと、感心したものである。その日は、トップナンバーのモハ3101に乗れ、警笛も聞けてラッキーに思った。


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 この頃の野田線は今よりも旅客が少なく、駅はとても静かだった。列車到着前の自動アナウンス「2番線に上り列車が参ります。危ないですから白線の内側にお下がり下さい...」などというものは勿論なく、時刻がくると3000系が「ジャルン ジャルン」とやって来るのみだった。しかし、駅事務所内には、列車接近を知らせる装置があり、列車到着1分くらい前に「プュー」や「プオー」という警告音を出していた。この警告音は上り下りで若干音を変えており、上り列車は高めの「プュー」だった。列車待ちでホームに居ても、駅事務所からかなり遠く離れているにも拘らず、この警告音が微かに聞こえてきて、列車接近の自動放送がなくても、まもなく列車が到着することを知る事ができた。駅事務所から「プュー」音がして暫くすると、「ジャジャジャジャジャジャ ジャ ジャ ジャ ジャルン ジャルン ジャルン」という列車の音が聞こえてきて、3000系列車が到着するのという光景だった。なお、この駅事務所の列車接近警報機は、東武野田線には未だ設置されたままの駅があり、現在でも聞く事ができる。しかし駅によっては上り下りのうち、片方の装置しか残っていないところもある。
 
 昭和54年頃の或る日、年来の友人である鵜川澄弘氏と共に、東武野田線を利用する機会があった。やって来たのは3070系の4両編成。おそらく3175Fだったものと思われる。鵜川澄弘氏はこの頃、鉄道マニヤを始めて数年のキャリアであったが、彼は車内に入ると、車端部にある「東京 津覇車輌 昭和50年」という車内銘版を指差し、こう、ひとり言のように語ったのである。「3000系の台車はものすごく古い。東武は何で...こんな電車を作るんだろう...」 鵜川澄弘氏はこの頃、東武3000系が旧型の更新車であることはご存知なかった。しかしさすがに慧眼、東武3000系がイコライザー旧型台車を履いている事を見抜いていたのだ。当の鵜川氏はもう覚えておられないであろうが、彼の何気ないこの一言に、私はどうもひっかかる所があって、永く頭にこびりついてしまった。数年前に乗車した国鉄の古い電車80系と、東京の国鉄線では聞く事の無い重低音のモーター音。国電に乗っても決して見ることがない津覇車輌という車内銘版。そして、鵜川氏の何気ない一言と... 3000系マニヤとして助走区間を走行中の私にとって、これは生涯忘れられない一言となった。しかし残念ながら、それでも私はその後約5年という長い間、助走区間を走り続けてしまうことになった。
 
 畏友鵜川澄弘氏からは、電車はクハ、モハ、サハ、クモハに分類されることなど、当時問わず語りに聞いたが、一般人を装っていた私は、あまり真面目に聞いておらず聞き流しているふりをしていた。その少し後の事であったが、一度、鵜川澄弘氏の言っているモハ、サハ、クモハの法則を実際に確かめてみようと思った事があった。大宮公園駅にやってきた3000系下り列車、先頭から2両目にはパンタグラフが付いておらず「サハ」。なるほどと思い、パンタグラフの付いている先頭車に歩いて行くと、「モハ」とあった。(あれっ、クモハじゃないじゃん。鵜川氏の話と違う)と思った。東武の車号規定ではクモハでもモハと称することを知ったのは、大分後の事であった。
 
 実は私の父はSLマニヤで、自宅には古いピク誌が山積みにされていた。長い事、それらを見る事は全くなかったが、昭和59年の或る日、古いピク誌をパラパラ見ていると、読者短信のコーナーに「東武32系更新、云々」という記事が目に止まり、(ん?)と思った。(もしかして、野田線を走っている3000系はこれなのか?) さらに古雑誌を探していると、そのような記事は、昭和40年代のピク誌のいくつかに断片的に散見されるのであった。5年前の、鵜川澄弘氏の一言も脳裏に甦ってきた。記事では更新後の車番が3500代と3600代しかなく、野田線を走っている3000系実車と合わないことは少々疑問に思ったが、野田線を走っている3000系は、32系というえらく古い電車を大修理したものらしい、という事をおぼろげながら把握し、俄然興味が湧いてきた。そんなモヤモヤした状態が1ヶ月くらい続きながらも、私は3000系に乗車していた。そして決定的には、雑誌の山からファン誌の1971年5月号を引っ張り出し、新旧の車番対比表を見た時で、これで長年の謎が解けたのである。氷解という気分をこの時ほど感じた事はなかった。私は漸く、東武3000系の出自を明確に理解することができた。
 
 3000系の奥深い歴史を垣間見て、それからというものの、東武3000系を更新車という違った視点で乗車するようになった。この頃東武の本線では、時期的に78系の更新がたけなわであったが、近代的に更新された5000系列と、当時首都圏の通勤電車として最も老朽化した部類であったボロボロの78系との対比を実見するたびにつれ、戦前形を主体とした3000系の旧車はどんなに古かったのだろうかと、3000系に乗車するたびにその思いは強まるのであった。更新車であったという事実を段階的に知った事もあり、3000系に対する興味は増すばかりであった。そして私は何時の間にか、長い長い助走区間から離れていたのであった。
   
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(3000系に毎日乗車して)
 
 昭和59年から、私は東武野田線大和田〜大宮の区間を毎日乗車するようになった。この頃、野田線列車の7割ほどが6連のスジで、残り3割が4連のスジであった。野田線では、線路容量の逼迫していた船橋口の輸送力を確保するため、昭和55年から8000系6連の運転が始まったが、それは七光台-船橋間に限られていた。大宮口の各駅ではホームがまだ短く、20m車6連は対応していなかった。6連は18m車の3000系に限られ、20m車の5050系は6連で入線できなかった。4連のスジは5050系が主体だったが、少数の3000系も共通運用されており、これには七光台区に4両固定2編成だけ配備されていた3070系が充当される事が多かった。大宮口の朝ラッシュは激しく、その対策のため朝の上り列車は6連で固められていた。従って、必然的に朝の上り列車は3000系中心となり、夏は暑く、乗客の多くは冷房車を望んでいた。東武大宮駅の改札が上り方に偏っているため、今も昔も朝の野田線列車大宮口は前方が超混みであり、後の岩槻方は朝ラッシュ時といえども、今よりもかなり空いていたが、冷房車5050系4連を朝の上り列車へ使う事は輸送力に問題があり、無理と考えられたようだ。結果的に野田線大宮口の朝ラッシュでは、冷房車の5050系列が外され、3000系主体でやって来る運用が昭和59年11月改正まで組まれていた。
 
  余談だが、この当時の野田線各駅の列車停止位置は編成両数が異なっても同じだった。従って、改札への通路がホーム端部にある一部の駅では、4両編成の列車に乗った場合には、降りる場所がいつもより改札から遠い場所になってしまった。一例を示せば、下り列車で大宮から大和田駅まで乗車する旅客の場合、6両編成の最後尾に乗車すれば大和田駅で改札はすぐそばである。しかし4両編成の列車では、最後尾に乗っていても最後尾はやや七里寄りとなり改札は遠くなった。現在でも、一部の駅のホーム床面には大6や小6、大4の表示が遺っているので、各々の列車の最後尾はここだったのかと、実感することができるだろう。当時、反対側のホームから眺める4両編成の列車は、最後尾だけ見ていると列車が行き過ぎて停車したように見えて、少々面白く感じた。

 当時、昼間の野田線大宮口は乗客が少なく、今以上に長閑な雰囲気であった。昼間の野田線列車は大宮からは10分おきの等間隔だったが、半数が岩槻止まりで岩槻以遠は20分ヘッドだった。日中の岩槻止まりの列車は2運用で回されており、1運用は3000系の6両だったがもう1運用は4両のスジだった。この4両のスジは3000系と5050系の共通運用で、3000系であれば七光台研修区に2本のみ配属されていた3070系がよく入っていた。昭和59年6月頃のある土曜日、この運用にて大宮から大和田まで乗り合わせた3070系は特にフラットが酷い編成だったことを覚えている。この日はたまたま、大和田駅近くの踏み切り脇にかつてあった眼科医で診察を受けた。眼科医はたいへん混雑していて病院には相当な長時間いたが、自分の乗った3070系が岩槻から折り返して大和田駅を上ってゆき、その後また大宮から折り返して大和田駅を通り、そのたびごとにゴシャゴシャゴシャゴシャと相当に騒々しいフラット騒音を沿線に撒き散らしていた。野田線にいた3070系の2編成3174Fと3175Fは、昭和40年代後半まで野田線で活躍していた53型を前身とし、更新後も野田線で活躍していたのだが、デッカー3000系や3050系と同じく、野田線ではレジンシューを装備していた。当時、新栃木研修区に配備されていた3070系は、ナナサン・ナナハチ・ゴーナナが使用していたものと同タイプの昔ながらの鋳鉄シューを装備しており、ブレーキ音は「ゼーー」と大きな音を出すものだったがフラットは少なかった。野田線時代の3070系は、日光線や宇都宮線の3070系のような俊足ぶりはまったくなく、デッカー3000系に歩調を合わせてのろのろと走っていた。助走区間を離れた直後の筆者にとって、3070系は車齢の若い、4両の3000系という印象程度しかなかったが、3070系は昭和59年11月改正で七光台区からナナハチの配備が減った新栃木区に抜かれて行ってしまった。

 昭和59年より毎朝私は、大和田発7:28または7:33の列車、前から2両目に乗ることにしていた。どちらも3000系6両の運用で、大宮方前から2両目は、4+2の編成ならモハ3500かモハ3100、6両固定編成ならモハ3300だった。まだ1両も欠けていないデッカー3000系列。日毎に列車は異なり、個体差もよく判り非常に楽しかった。私はいつも、3000系・更新前旧車の車番対比表と台車表を定期券入れに折りたたんで挟んでおき、いつも旧車の姿を想像しながら乗車していた。昭和30年代の鉄道ピクトリアル東武特集に掲載されている青木氏、花上氏の解説に出てくる遠い過去の電車や、木造客車のルーツをどこか微かに感じることのできた東武3000系。毎日の乗車のたびにデッカーDK91モーターの唸りに私は満足するのみであった。今となっては、現車の調査をきちんとやっておくべきであったと後悔のみである。

 2ちゃんねるなどを見ると、3000系はフラットが酷かったと書き込んでいる方が居られるが、3000系の多くは当にそのような状態であった。全体の三分の一位は「ゴゴゴゴゴ」と、吊掛モーター音も負け気味だった。そんな状態の車でも、朝ラッシュ時には満員電車で荷重がかかっているので、フラットの酷い車でもそれなりに良い音がした。これに対し、全検出たての編成は流石に惚れ惚れするような素晴らしいモーター音と、イコライザー台車独特の固く安定した乗り心地を堪能できた。私はあまり背が高い方でないので、毎日、背広のおじさんの背中に顔を挟まれながら、3000系の唸りを堪能していた。東武野田線、朝のデッカー3000系は、当時のビジネスマンが良くつけていた、苦味と、シロップを混ぜたような独特の香水の香りでいっぱいだった。現在でもたまに街中で、昔の香水をつけたお洒落な初老のおじさんとすれ違うことがあるが、突然、当時の東武3000系列車の車内が鮮明に思い出され、とても懐かしい気分になるものだ。

 昭和60年の秋、東武線に転機が訪れた。おそらくマンスリー東武だったと思うが、東武の広報誌に(電車のカラーリングが変わります)といった内容の記事が掲載された。セージュクリームと称されていたそれまでのタマゴ豆腐色から、白地に青帯になるという。一体どんな感じなのだろう、と注目していた。
 昭和60年末のある日、大和田駅で大宮行き列車を待っていると、当に真っ白な3000系が現れた。先頭2両の3412-3112のみ塗り替えられ、後ろ4両は旧色のままの編成だった。駅ホームがパアッと明るくなったように感じたものだった。
 野田線の3000系と5000系では、この3412-3112の2両を嚆矢として新塗色への変更が始まった。後で記載するように、野田線の車両は昭和63年5月に全車の新塗色化が完了するのであるが、塗色変更のペースはきわめて速かった。3000系では変更開始から約1年半後の昭和62年6月末までに、すべての2両と4両固定編成の新塗色化が完了した。4両固定で最後に旧色で残っていたのは3121Fで、昭和62年6月27日には新塗色となっているのを杉戸工場脇で見かけている。この時点で旧色で残っていた編成はいずれも6両固定編成のみで、3116F、3123F、3128Fの3本だった。5000系も最後の旧色編成5180Fは、昭和62年8月に塗り替えられた。野田線の車両では、昭和60年12月頃から昭和61年6月末までの約1年半の間に、9割を超える車両の塗り替えが進んだのである。全検や重要部検査時だけではなく、おそらくは臨時に入場させてどしどし塗色変更を進めたのであろう。

 全検といえば、昭和60年末だったと思うが、朝のいつもの時刻にモハ3129がやってきた。セージュクリームからジャスミンホワイトの新塗装にピカピカに塗り替えられ、パンタは眩い銀色塗装。「ワーオーウー」と低いモーター音を響かせて、ホームに滑り込んできた光景は今でも鮮明に記憶している。大体においてフラットのひどかった3000系、前述の通り、全検直後は3000系でも素晴らしいツリカケサウンドが堪能できるのであるが、このときのモハ3129は別格であった。全検修繕を担当した方の腕が素晴らしかったのであろうか。イコライザー式の旧型台車であるにも拘らず、なめらかで線路を滑るような乗り心地は素晴らしかった。勿論、イコライザー台車の乗り心地は最近の電車のような柔らかさはないが、固さの入って安定した独特の乗り心地であった。隣りのクハ3429は種車が国電復旧車のクハ450系、デッカー3000系で唯一ウイングバネ台車TRN-50装備車であったが、ラッシュのため車両間の移動がままならず、その時に乗れなかったのは残念であった。それ以後、全検直後の車であっても、そのような乗り心地の3000系に出くわす事はまずなかった。

 昭和60年頃まで、3000系の古台車が装備する車輪は昔ながらのスポーク車輪であった。ただし、TR11台車のみはスポーク車輪ではなく、既に新しい車輪に交換されていた。この頃、杉工の裏には、TR11から取り外したスポーク車輪がずらりと置いてあった。外されたスポーク車輪には、ご丁寧にも3000番台の車番がペンキ書きされていた。TR11車輪の交換は昭和58年頃であろうか... 話が外れたが、TR11以外の3000系古台車の車輪は、ちょうどこの新塗装化の頃に行われた。3000系は廃車直前だったが、おそらく古車輪は長年にわたる使用で磨り減り、継続使用は限界だったのだろう。
 なお、古台車の手入れは、以下のように車輪交換だけに留まらなかったと思っている。大宮公園駅から大宮行き電車に乗ると、線路はほどなくして左にカーブしてゆく。私は大和田から乗車していたので、朝の満員電車ではどうしても進行方向左側に辛うじて身をねじ入れた状態で乗車することが多かった。3000系がモーター音を響かせながらこの大宮公園−北大宮 間のカーブにさしかかると、足の遅いデッカー3000系は線路のカントに負けて、車体が左に傾いてしまう。このため、進行方向左側の乗客には、進行方向右側の乗客の重みがずっしりとかかってきて、たまたまドア側に乗車していると、身体が堅いドアに押し付けられて大変だった。この区間では、DK91モーターの心地よい高鳴りとジョイント音、痛みを味わうのが常だった。ただし、東北線と合流する付近の踏切、当時は北側にレストラン ボンがあった踏切だが、ここで大体の場合、3000系の上り列車はノッチオフしてしまう。なお、現在の電車は格段に加速が良いが、この踏切より先まで力行しているのが面白い。
 3000系の新塗装車が殆どとなった頃、朝にこの区間を乗っても3000系の車体はもう左に傾かなくなったことに、はっと気が付いた。あくまでも想像であるが、車輪交換と同時に、へたったコイルばねも交換したのだろう。前述のモハ3129の素晴らしい乗り心地は、この新品車輪によるものだった可能性がある。車輪交換に伴って、モハではモーター音に僅かな変化があったが、これはいつの日か述べたい。

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 私は、デッカー3000系が「ウーン」と加速してゆく際、直並列が切り替わるちょっと前頃のモーター音が好きだった。並列段直前の「ウオーン」というモーター音の中に、私の乗ったことのない旧車32系がイメージされるのであった。毎朝私は、ラッシュの人ごみに挟まれながら、DK-91/Bモーターの唸りを一駅毎に心に刻みつつ、嘗ての古い東武に思いを馳せた。別稿でも記載しているが、デッカー3000系は低加速のためか空転はかなり少なかった。これに対し、5000系列はよく空転した。デッカー3000系は、小雨の日でも吊り掛け音が空転で飛ぶ事は殆ど無く、毎日、DK91/Bモーターの唸りを堪能できた。大和田駅から大宮駅までの短区間であったが、当に毎日が至福の時間であった。

 どの路線もそうであるが、冬は着ぶくれで列車が混雑した。デッカー3000系は非力なため、駅で発車が遅延してしまうと、加速度、最高時速性能共に回復運転が殆ど不可能だった。従って、駅での発車遅延は避けなければならなかった。真冬の朝の上りホームには、助役さんと各駅に1名ずつ配備されたアルバイトの黄帽子東武ボーイさんが、3000系列車によるラッシュを捌いた。真冬は車内と外との気温差が激しく、3000系の鋼製扉はびっしょりと結露してしまう。列車に乗客を満載すると乗客の服と濡れた扉が密着し、乗客の圧力のせいでドアが開閉しにくくなった。到着した3000系列車は、駅に停車しても所々のドアが開かない。最近の東武線では冬でもそのような光景にあまり出くわさないが、3000系のドアシリンダーは今より非力だったのかもしれない。そんな具合にドアが開かないと、ホームの乗客か、東武ボーイさんがドアを外からエイッと開けてくれるので、私もそれっ!とばかりに3000系へ体をねじ入れる。車掌さんがドア締め操作をすると、所々のドアで乗客がはみ出し、ドアが完全に閉まらない。自分がはみ出ると最悪であったが、助役さんや東武ボーイさんが「よいしょ、よいしょ」と押してくれて、駄目かと思っても何とか押し込んでくれた。剥ぎ取りに逢うことはなかった。しかしながら3000系には扉の再開閉装置が装備されておらず、ちょっとした物がドアに挟まると、駅スタッフは大変であった。東武ボーイさんが満身の力をこめて扉を何とか拡げ、助役さんが挟まった物を車内に押し込むのであった。このとき、助役さんが持っておられた手旗信号の軸は、女性のハンドバックなどを車内に押し込むのに非常に便利に使われていたが、今思い出してみると少々荒っぽいやり方だった。しかも3000系は戸閉検出装置がへたっている車が多く、ドアが乗客に挟まれながらゆっくりと閉まると、実際にはドアは閉まっているのに戸閉検出装置が作動せず、ドアが開いている時に点灯する車両側面の赤燈は点灯のまま、運転台戸閉ランプも滅灯しないので、いつまでも発車できないのである。こういうときは、助役さんは手旗で遥か後方の車掌さんに合図をした。すると、車掌さんは「パンパン」とドア開閉装置を一瞬だけ操作するのであった。戸閉装置の操作は0.3秒ほどなので、車内では「シュシュッ」と音がするのみでドアは開閉しないが、こうすることで戸閉が検出されて発車する事ができた。それは車内に居れば以下のような感じであった。朝ラッシュ時は、話をしている乗客など皆無で、超満員なのに停車時の車内は静まりかえっている。駅で扉が閉まらず列車が遅延すると、多くの乗客は大宮でいつも乗り換える国鉄線の列車に間に合わなくなるので、乗客は互いに挟まれながら、(早く列車が発車しないものか...)と皆思っている。ドアが閉まっても、どこか遠くのドアで何かが挟まっているようで、すったもんだをしてドアがゴトゴトしている音が離れたところから聞えたりしてくる。それ以外の音はせず、冬の朝ラッシュの3000系車内は(しーん)と静まり返っている。そうして、暫く静寂の後に、「シュシュッ!」という一瞬のドア閉め装置の音がすると、間髪置いて、「チィィィーー」という3000系独特のブレーキ緩めエアー音が聞こえ、「ごとり」と3000系は動き出すのであった。(ああ、やっと発車か)と、皆思ったものだろう。

 そんなこんなで、真冬は3000系列車の遅延が多かったが、前述のように非力な3000系は、回復運転が殆ど不可能であった。駅で何分も遅延してしまうと、(こんなに遅れてしまって、どうするのだろう...北大宮駅はお客も少ないし通過してしまえば良いのに!)と思ったものだ。満員の乗客を乗せた3000系は「ウオーン」と言いながら発車し、フルノッチで走った。駅間距離がせいぜい1キロか2キロ程度の東武野田線、昨今の電車と比べると隔世の感があるほど低性能なデッカー3000系。加速が悪いうえに、フルノッチで走り続けても「クウーン」というモータ音は60km/h程度を境にちっとも高くならず、スピードは伸びない。駅到着間際までノッチを入れていても殆ど運転時分の回復はなかった。東武3000系の最高速度が85km/hとしたWebページもあるが、3070系ならば話は別であるが、デッカーの性能は低くいくらがんばっても実際にはそんなスピードは到底無理だった。運転手に残された最大の回復運転操作は急激なブレーキ扱いをすることと思えたが、これは乗客には結構辛かった。ただし3000系は自動ブレーキ方式のため、突然ブレーキがかかるという訳ではなく、エアが抜ける音がしてから実際にブレーキが効いてくるまでには数秒間隔があって、この点は乗り易かった。中間車に乗っていると「シーウーシーウーシーウ」というブレーキ弁が操作された音がして、間髪置いて、グーッとブレーキが効いてくるのであった。先頭車でエアが抜ける音は、「シーーーー」という音だった。また、ブレーキ緩めの音は「チィーーー」、車外からは「ハーーー」という音に聞えた。駅で列車を待っていると、「シーーーー ハーーー シーー ハーー シーウーシーウーシーウ」という感じで、3000系列車は停車するのである。単線区間の駅で交換のため出発信号が赤信号の時など、列車は構内をのろのろ走るのでこのシーハー音を良い感じで聴くことができた。これらの音は当に3000系の息吹であり、私には如何にも3000系の呼吸に感じられたものだ。

 3000系のブレーキは、旧車の装置を引き継いだとされている自動ブレーキで、車体中央に1個のブレーキシリンダーが付いており、シリンダーの動きは海側のホームにいると、よく観察する事ができた。このシリンダーから、てこ棒で両台車のブレーキが接続されていた(台車ブレーキ式のゲルリッツ台車を58系から継承した3176と3376を除く)。この自動ブレーキ方式というものは、各私鉄の初期カルダン車まで採用されたものが、電磁直通ブレーキと比べて応答性がかなり悪いもので、乗務員のブレーキ操作も熟練を要したという。

 満員で足が踏ん張れないと、ブレーキ時だけでなく電車が加速するときにも乗客は結構辛いものであるが、東武3000系は加速性能が非常に悪いため、列車が加速してゆくときに辛い思いをした事はあまり無かった。大体、朝ラッシュ時のノッチ刻みは、[1]で起動し、数秒置いて「バリバリバリバリ」という音がしてM-8Dマスコンが操作され、直列最終段の[5]まで入った。単線区間であればポイント通過が済むまで、同様に直列最終段にノッチが入ったまま、「ウーン」とモーター音を立てながら走った。その後は大体、最終段[9]まで一気に操作されるか、1段づつ刻むかどちらかであった。デッカー制御器の直並列の切り替えはスムーズさを欠き、渡りの際に一瞬モーター音が途切れ、「ゴツン」という軽い衝撃と共に並列段に入るのであった。なお、渡りの衝撃は、東武8000系や国鉄の新性能車でも目立ったから、デッカー制御器が特に悪かったというほどでもない。8000系などでは、「コツン」という音とともにアークを飛ばす事が多いが、3000系ではそのようなことはなかった。

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 M-8D主幹制御器は、逆転レバーの位置によってAL(自動進段)、HL(手動進段)の両方が使い分けられるものだった。運転操作が便利なAL式制御器が開発された後にHL式が残されたのは、当時ウェスチングハウスのHL制御器が主流で、乗務員はHLに慣れていたためと思われる、東武では、32系より前に導入した電車ではHL制御方式の採用だった。デッカー3000系では、AL的に運転操作されていた場合を多く観察したが、HL的に1段づつ刻んでいる運転手の方も居られた。そして前述のように、「5」まではM-8Dマスコンをバリバリバリバリと飛ばし、「6」以降の並列段になってからは1段ずつ入れる方が多かったように記憶している。1段づつ刻むHL式運転では、M-8Dの逆転レバー位置をAL制御かHL制御のどちらにしてあっても良かったはずで、これは残念ながら観察できなかった。昭和50年代から60年代にかけての東武線では、運転席背後の深緑色幕は昼間でも必ず降ろされていて、開いてることなどは数百回乗って、1回あるかどうかであった。従って私がM-8Dの運転操作を観察できた機会はそれほど多くなく、「バリバリバリバリ」というM-8Dマスコンの音から運転操作を想像する事が殆どだった。どなたか元乗務員の方から、運転方法に関するご発表を期待したい。

 満員時に乗客が辛かったのは、強いて挙げれば、直列の3〜4段目あたりと、直並列が切り替わった直後だったと思う。このときには少々足の踏ん張りを要した。余談であるが、野田線に8000系が8101Fの1編成のみ配置されていた時期があり、3000系の低加速に慣れた乗客は、8000系の高加速についてゆけず、始発の大宮駅などでは8000系が弱め界磁起動するので、「バタバタバタ」と皆、よろけていたものだ。

 夏のラッシュでは、冬のような目立った遅延は無かったが、冷房の無い東武3000系電車は当然ながら結構暑かった。朝なので外気温はさほど高くなかったであろうが、ぎちぎちに乗客の詰まった非冷房車での通勤はやはりそれなりに暑かった。天井には扇風機が「ブーン」と熱い空気をかき回しているだけであった。国鉄では冬になると扇風機へカバーをかぶせるが、東武は扇風機を根元から外してしまうという手のかかるやり方だった。この頃は、東武野田線が接続する国鉄線各線でも非冷房車は当たり前だった。大宮口では京浜東北線がかなりまともで、103系の10両編成中、両端3両は必ず冷房車で、低運転台McTc車を含む真中4両は非冷房車だった。東北・高崎線の中電115系は、冷房車300番代は半分以下で、0番代は勿論非冷房、国鉄の厳しい状況を反映したような1000番代は準備車としての竣工で冷房なぞ付いておらず、屋根上の冷房スペースには押し込み型ベンチレーターがちょこんと1個付いているだけだった。川越線は非電化単線タブレット閉塞でキハ30、35系が走っており、言うに及ばずであった。柏口の常磐線103系、401系、船橋口の101系、103系、113系も冷房車は少なかった。通勤用一般鉄道車両の冷房化は、平成になって急速に進捗したもので、東武3000系が非冷房で暑かったという事は、昭和末期には寧ろあたり前であり、3000系の乗客が特に不満に感じる事はなかったと思う。

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 3000系に乗っていると、東武の他系列では聴く事のない、一寸気になる雑音を3種ほど聴く事があったので、本系列の思い出として紹介したい。
 第一には「バイン!」音である。朝ラッシュ時に満員の乗客を載せて深いブレーキをかけて停まろうとすると、停車間際に「チィィィーー」と制動を緩めた際に、床下の台車あたりから「バイン!」というか「バン!」というような、如何にもバネを延ばしてひきちぎったような鈍い音がすることがたまにあり、気になったものだ。この音はおそらく、3000系の履いていた古台車から発せられたものと思われ、板バネというよりも、コイルバネから発せられた音のように思われた。この「バイン!」という床下音は、昼間や夜間には全く聞く事がなく、朝ラッシュ時に列車が遅延気味となって停車時に深いブレーキをかけ、停車間際にブレーキを少し緩めた時のみに聞く事ができた。満員電車で深いブレーキがかかった後ということもあり、こういう時は誰もが体を支えるのに必死なのであるが、3000系にも如何にも負担が掛かっている様に感じられたものである。
 第二には、「モリッ!」音である。この音は、大宮、柏、船橋などで折り返し停車している間、乗客が列車に足を踏み入れた瞬間にするのである。車内の乗客にしてみれば、別の客が入ってきた瞬間に「モリッ!」という比較的大きな音がするので、私だけであろうがこれは少々滑稽にも思えた。このほか、運転手さんが乗り込んで、「チィィィーー」と非常ブレーキを緩めた際にも聞く事ができた。発生源は古台車の板バネが撓む音と信じている。
 第三は、上記の音より頻度は少なかったが、「ゴォウ!」という比較的大きな重低音と地響きである。この音はたいてい、発車寸前にブレーキを「チィーー」と緩めた直後、「ゴォウ!」と、地響きのように車体が僅かにブルって振動まで伴うのであった。たまに、停車間際に制動を緩めた際にも聞えることがあった。この音と地響きは、ブレーキ緩めに伴っていたので、ブレーキの動作弁やシリンダーなど、空制関係が発生源と想像していた。見た目は古臭さが全く感じられなかった東武3000系であったが、この「ゴォウ!」という重低音がすると、何となく旧車の老いた息吹というか、奥深い歴史が感じられて鳥肌が立ったものだ。
 その他些細な事であるが、非常ブレーキの際の「パッシャーン」音は、8000系や5000系のそれと似ていた。両系は「シャーン」というイメージであるのに対し、3000系は若干間延びした「パッシャーン」であった。そして正しくは、野田線所属(七光台区)の3000系の非常ブレーキ音は、「パッシャーン・トピュウ...」であった。「パッシャーン」は当然ながらエアが抜ける音であるが、その後の「トピュウ...」という少々情けない音は、特殊な動作弁から発せられる音であった。3000系は自動ブレーキ式であり、野田線列車は6両編成と比較的長編成のため、非常ブレーキをかけてもエア抜けが全車に及ぶまで時間が掛かる虞があった。応答性の改善策として、七光台区の3000系には特殊な動作弁が付加されていた。この特殊動作弁は七光台区の3000系全車、即ちデッカー3000系全車と同区配置の3050系全車に装備されていた。なお、館林区の3050系では、この動作弁を持った編成と持たない編成が混在し、「パッシャーン トピュウ」と言う車と、「パッシャーン」のみの車があった。新栃木区の3070系や、57系には装備されていなかった。78系にも装備されていなかった記憶がある。当時七光台区には、4両固定の3070系が2編成だけ配置されており、これらは6両編成を組む事は全く無かったのであるが、この動作弁を有していたか否か、残念ながら記憶していない。

 3000系だけでなく、東武の非冷房全金属車には、夏季には窓の正しい開け方があった。上窓はちょうつがいを押して「パコン」とストッパーまで降ろし、下窓は下から二段くらいまで開け、日差しが入ればその上からカーテンをすっぽり下げるというものだ。東武の全金属車として現在唯一の存在となった8000系列は、近年に下窓が開かないように改造されているので、この開け方を実践することはできない。なお、上窓を開けず、下窓のみを全部上げるのが最も効率の良さそうな開け方であるが、こうすると大人でも落っこちるくらい開いてしまい危険であるし、風も強すぎるため前述のような開け方が良かったようだ。夏の暑い日には、カーテンを完全に下げてしまうと風がほとんど入らず暑いので、カーテンは下から一段くらいまでにして少し隙間を作ると、座っている旅客ならば首筋あたりに外の熱風がばんばん吹きこみ、気休めにはなった。野田線を走る3000系では、ときおり窓から草むした臭いが入ってきたものだ。しかし窓を開けていると、停車間際だけであるが、窓から3000系独特のむっとした臭いを時たま「ふと」感じることが多くあった。この臭いは大体、駅に近づき「シーーーハーー、シーーハー」とブレーキが操作されている時、床下から窓を経由して車内に入ってくるように思われた。8000系の減速時に生じるレジンシューの焼けた臭いは有名であるが、あの臭いとは似て非なるもので、78系の木床に塗られた油の臭いとも違った、古いマシン油の臭いと、電気配線が過熱したような臭いが混ざった感じだった。私は長いこと、32系から引き継がれた旧機器であるDK91/Bモーターか、または4個連なった古くて小さな箱型抵抗器が焼けた臭いではないかと信じていたが、停車間際しか臭わなかったことから、あれは3000系に装備されていたレジンシューの焼けた臭いなのかもしれない。

未完


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