5000系の思い出 徒然なるままに

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 野田線沿線に長く住んでいた筆者は、 5000系にはよく乗った。あまり真面目に追いかけなかったため、以下記載の5000系の思い出は、どうしても野田線主体となってしまうことをご寛恕頂きたい。
 5000系は78系の更新車のため、何かと78系が引き合いに出されるが、筆者はやはり当然ながら、78系と5000系は別物と考えたい。これは当たり前のことである。車体は台枠から新造、一部の部品が流用されただけの別の電車なのである。しかしながら、あの迫力のある走行音を聞いていると、筆者もときたま78系の世界に引き戻されてしまう。かつて野田線でモハの車端部に乗り、クリーム色の車体の上に広がる抜けるような青空と、妻面に取りつけてあった隣接車輌の旧番号プレートを眺めながら、吊掛音と冷房音に身を任せていると、老兵ナナハチを失った喪失感で、心の中は一杯になった。5257
 
 筆者はとにかく3000系に熱を上げた手であるが、不幸にして更新前の32系、54系、53系などは見る機会もなかった。おそらく、これらの旧車を見ていたら、3000系など殆ど興味は向かなかったと思う。
 翻って5000系。野田線沿線に住んでいた筆者は乗車機会が少なかったとはいえ、本線や東上線で老朽化した78系が勇ましく走リ抜ける姿には、心を奪われたものだ。これに対し5000系は、ナナハチの更新車という認識程度に留まってしまい、とにかく良く乗った車であったが、3000系ほど夢中に追いかけることはなかった。3000系も5000系も、趣味的な面白さは殆ど変わらないと思えるため、旧車を知る、知らないの問題もあるだろう。それはさておき、昭和末期まで東武線に君臨していた73・78系の雄姿は凄まじかった。

 筆者が最初に5000系を知ったのは、昭和58年だった。野田線の半鋼製車として最後に残った53系が昭和50年に3070系へと更新され、その後は3000系オンリーであった野田線に、8000系が数編成転入したのは昭和52年のことであった。野田線初のカルダン車で冷房付、昭和51年から筆者は、週に一回野田線を利用していたのであるが、8000系が来るとかなり気を良くしたもので、嬉しくて仕方なかった。ところがその後、昭和58年の或る日、大和田駅に隣接した踏切で列車の通過を待っていると、8000系と思われた大宮行き冷房車はもの凄い重低音を撒き散らしながら発車していった。車番は8000系ではなく5000系。おおっ 新手の唸る電車だ!と驚いた。しかし気に入っていた8000系が僅か数年で撤退し、野田線からカルダン車が再び無くなってしまったのは残念に思った。

 筆者が最初に5000系に乗車したのは、昭和58年8月14日の日曜日、船橋からの乗車だった。当時の柏−船橋間、通称船橋線は列車本数が少なく、日中に船橋から乗ろうとすると、六実止まりの列車も結構あった。筆者が船橋から乗車した列車は船橋発12:13の六実行き5050系列車だった。冷房車だが吊掛車で、冷房車イコール8000系という図式が固まっていた筆者には、少々違和感が感じられた。しかしこの日は暑かったので、座れなかったが5050系の冷房は当に天国だった。5050系のモーター音は3000系より勇ましく、この点も好ましく思った。勿論、当車が7800系の更新車であることは、当時知る由もなかった。終点の六実では大宮方面への接続列車があるものと漠然と思っていたがそのような列車はなく、結局六実で15分間くらい後続の柏行き列車を待たされて乗り継いだ。しかし、やって来た柏行き列車は暑い3000系でがっかりした。再度柏から乗り換えた大宮行き列車も3000系で、大和田に到着した頃にはさすがに暑くてげんなりだった。この当時、ペットボトル飲料という便利なものはなく、猛暑のなか飲まず食わずの行程だったが当時は当たり前だった。
 野田線の大宮口では、後述のように5050系は暫く4両編成で運用を組み使われていた。

 野田線では乗客の増加に伴い、昭和52年には3000系の6両編成が登場したが、乗客が日増しに増えたため昭和59年11月改正で4両編成が廃止され、野田線全列車が6両化された。この改正の直前、4両のスジに乗ってくるのは5000系が多く、当時2編成だけ配属されていた3070系も4両で共通運用だった。東武大宮駅に設置されていた発車案内板(最近までJR駅のどこにでも有った金属板がパタパタ回る奴)に、両数の表示があり、この改正までは4両の表示なら冷房車の5000系が高確率で期待でき、夏季は喜んだものである。しかしこの改正から、全列車が6両となり、次にやってくる列車の車型を推定することができなくなった。そしてこの昭和59年改正から、5070系が初めて大宮口に現れたのである。この改正までは、朝ラッシュの大宮口上り列車では輸送力を確保するため4両編成を外し、小型車6連(3000系)の運用で固められていた。即ち、ここ一番の朝ラッシュでは、大宮口では冷房車が来なかったのである。しかしこの改正から、朝ラッシュ時では基本的には比較的空いている岩槻始発を小型車3000系6連、岩槻以東からの混雑したスジを大型車5000系6連と、交互に配して5分ヘッドでラッシュをさばくようになった。但しまだこの時点では5000系が足らず、完全な交互パターンにはならなかった。

 昭和59年改正の当日朝、改正前まで毎朝乗っていた列車は3000系6両のスジであったが、この改正から5000系6両のスジとなったのである。その日は一寸肌寒い日であった。筆者は平常より若干遅れて駅に到着したので、ホームに着いた時に列車が丁度停車する所であった。そこには「バルルルル」という8000系にも似たCP音(HB-2000)を響かせて5070系(確か5172編成だった)が入ってきたのである。一気に番台が70に飛び、D3-FRの流用を止めたのもこの時知った。この頃は現在のような情報化社会ではなく、東武もダイヤ改正に先立っての紹介宣伝なぞ殆どやらなかったので、筆者は事前にこの事を知る術もなく、大いに驚かされたのである。

 野田線では20m車6両編成を入線させるため、昭和59年改正に先立ちホームの延伸を要した。用地の関係で、中には子供騙しのような幅でホームを伸ばした駅もあった。野田線の駅で、今でもたまにホーム端部で見られる幅1m程の狭い所はこの時に延伸された箇所である。ホーム延伸に伴い、一部の駅では営業キロ程に変更を余儀なくされ運賃にも影響が及ぶなど、長編成化は大変であった。該当駅はいくつかあったが、大宮口では北大宮駅がこのとき営業キロを変更する駅に該当した。変更は0.1キロであるが、一部区間では運賃が変更となった。同駅発着の定期券所持者のうち、対象者には新キロ計算に基づき余剰額を払い戻すという処置について、駅に簡単な掲示が出された。なお、柏口では本改正より少し前に20m6連対応のホーム延伸を済ませており、5070系は本改正より前から運行されていた。蛇足ながら、東武鉄道百年史 資料編(東武鉄道兜メ 平成10年)416ページにある年表には、野田線全列車6両化が昭和60年11月改正からと記載されているがこれは誤りで、前述の如く正しくは昭和59年11月27日改正からである。

 混雑が激しくなってきた野田線朝ラッシュ時において、142kwモーター装備で加速度と最高速度に余力のある5000系は遺憾無く威力を発揮した。列車遅延時には、3000系では殆ど無理であった回復運転をすることができた。甲高い吊り掛け音とともに高速で遅れを取り戻す姿には、本当に頼もしく思えたものである。大体において、5000系のモーター出力は3000系の約1.5倍もあったのであるから当然であろう。また、5000系は冷房を装備しており、非冷房3000系列の多い野田線では夏はさすがに快適であった。暑い3000系にうんざりしていた一般客の目には、5000系が吊掛車で乗り心地が劣っていようと新車に映ったことであろう。

 5070系は、5176Fと5177F以外は更新次第、順次野田線に配属された。前記2編成は本線で暫く活躍した後、野田線に転配された。伊勢崎・日光線では、5000系列は主に準急で使用された。伊勢崎線のA準急に乗り合わせた事を覚えているが、時速80キロ位のフルノッチで5000系は飛ばしたが、ロングレール化される前の伊勢崎線。うるさいツリカケモーター音にガタコンガタコンと、それは結構な揺れと騒音だった。

 5178Fから車内が10000系並となり、明るい化粧板の使用、蛍光灯が増設され、車内はかなり明るく感じられた。夜などは薄暗い3000系に比べるとかなり明るかった。セージュクリームでの更新出場は5180Fが最終で、5181F〜5183Fは最初から現行の白色塗色であった。セージュクリーム車もあっという間に塗りかえられ、5000系列で最後まで旧塗装で残ったのは5180Fであった。5180Fを旧塗装で最後に見かけたのは昭和62年7月16日であり、8月9日には新塗装で走っていた。

 現在5000系は低加速度の電車として捉えられており、20年前も文字で表現すればそのとおりだったが、当時の野田線には足の遅い大先輩3000系が主力として活躍しており、5000系の性能は前述の通り3000系に比べたら雲泥の差があった。駅間距離2キロくらいだったら、3000系では時速65キロがやっとなのであるが、5000系なら75キロ位は平気で出せた。このスピードのせいかもしれないが、5000系は3000系に比べると揺れが酷かった。野田線の大和田−鎌ヶ谷間で毎日長時間乗車をしていた筆者にとって、野田線の車内は格好の事務作業時間であったが、5000系は揺れが大きく、この点ではあまり宜しくなかった。特に一時期のクハ5156は「キャピキャピ」と床下の台車から音を立てて蛇行し、この車が来ると書き物などはもうどうにもならなかった。揺れの原因はスピードだけでなく、台車構造にもあるのかもしれない。「クッカ クッカ」と台車から音を出しながら揺れの大きい車はまだ他にも若干あった。5000系が装備しているFS-10台車、いかにも戦後の台車という形態をしているが、鉄の塊のような鋳鋼製台車はかなり重そうである。
 
 20年くらい前、野田線の若い運転士でFさんという方が居られ、一部のマニヤ間では知られた方であった。このFさんは結構なスピード狂で、短い駅間距離の野田線をフルスピードで走った。釣掛車を駆使し、大体においてノッチオフはいつも駅の手前だった。3000系は鈍足のためフルノッチで走行しても大した事はなかったが、5000系は流石にスピードが出た。Fさんの運転は実に上手く、特にブレーキ手腕は見事なもので、あれだけ飛ばしても停車時には衝撃なく「スーッ」と停車して素晴らしかった。速度制限を引っかけてのATS作動など皆無だったのは言うまでもない。しかしながら、駅間距離の長いところではかなりのスピードが出て、一度、新鎌ヶ谷信号所設置前の六実→鎌ヶ谷間で、F氏の運転する5000系列車に乗り合わせ、北総線と新京成クロス付近の下り坂、現在は新鎌ヶ谷駅辺りであろうが、当に離陸するようなスピードが出て本当に怖くなった思い出がある。

 野田線の柏−船橋間、戦前は船橋線という線名だった区間は現在も柏以西と切り離された感があるが、野田線では電化が最後に行なわれた区間で、下総台地を主に切通しで抜ける嘗ては開発途上の地域であった。昭和50年代までは日中にも六実−船橋間の区間列車が結構あり、総列車本数も少なかった。船橋方は少し複線化されていたが、柏−増尾間、六実−鎌ヶ谷間など、閉そく区間が特に長い単線区間があり、新柏駅開業後もこの状況はあまり変わらなかった。船橋線の乗客の伸びは著しく、船橋線柏口の朝ラッシュはギリギリのダイヤが組まれていた。このような状況の中、足の遅い3000系を朝方船橋線で運用するのは厳しくなり、列車遅延を解消するため昭和62年12月改正から船橋線では基本的に5000系主体の運用が組まれて活躍した。筆者はこの改正のせいで、船橋線で3000系に乗る機会が減ってしまい、面白くなかった。
 
 小故障にも何度か出くわした。昭和63年7月15日、夕方の柏発大宮行きは5173Fであったが、春日部辺りでモハ5573のドア1箇所が故障して閉まらなくなった。列車は春日部に小休止し、閉まらなくなったドアの出入口左右の握り棒を用いて蛇ロープでぐるぐる縛り、そこに職員を立たせ、故障ドアは開放のまま運転を続行した。恐らく大宮で折り返し後に七光台で運転を打ち切ったのであろう。ドアを1箇所開けたまま列車を運行するとは、現在ではまず考えられないような処置であるが、このほんのちょっと前まで、国鉄の亜幹線には手動ドアの旧型客車など幾らでも居たのである。職員を立たせての運行であるし、当時としては全く問題無い処置であった。平成2年1月27日、朝の大宮発柏行き615レは5158Fと5500型の6連だったが、春日部辺りであったか、モハ5500型のドアが故障した。しかも同編成中のクハ5158床下からはシューシューとエア漏れがあり、D3-FRが回りっぱなし、結局同列車は七光台で運転打切となり、3125Fと車両交換となった。急遽車庫から引っ張り出されたモハ3125車内がえらく寒かったことは忘れられない。

 5000系の装備しているTDK-544、HS-269モーターは出力142kwで、かつ高回転タイプであり、旧国や他私鉄ではあまり聞く事の出来ない独特のモータ音である。「モワーッ」という甲高い感じであろうか。しかし最後の活躍をしていた宇都宮線や館林区の5050系では、廃車直前のためか車輪のフラットもひどく、かつての勇ましい音は聞く事が出来なかった。鉄道ダイヤ情報 vol. 35, No. 3, p. 44 (2006)に、「更新当初は駆動装置の歯車の噛み合い具合や車体構造からなのか、7800系よりも甲高さが感じられる駆動音で微妙に7800系と区別がついたが、更新から20年越となった現在ではさすがに駆動装置が馴染んできたのか、更新当初よりも落ち着いた駆動音となっている。」との記載があり、なるほどと納得した。確かにそうであった。現在の5000系の方が、より78系に近い音であると私も思う。先日、宇都宮線で5050系に乗車し、20年前に乗車した全廃前の78系を思い出した。但し78系は矢張り半鋼製車特有の枯れた音であり、走行音は5000系とは違っていた。音からすると車体全体の鋼性は78系より5000系の方が柔らかいような感じがする。当系列だけでなく、東武釣掛更新車の音は、プラスチック箱のような音がする。釣掛車の音は、車輪のフラットやギヤの具合など、車両の状態により大きく変わるものであり、全検でも受けた後は音がかなり変わってしまう。カルダン車でも、車両によって音の感じが若干違うが、釣掛車はこの差がもっともっと大きいものである。

 平成18年末で、最後まで宇都宮線に残っていた5000系が引退し、5000系電車は東武線から消えてしまった。車令はまだ若く、8000系初期車に車体を流用したらどうかと、私はかねがね思っていたが、諸般の事情からか実現しなかった。今時吊掛車を譲り受けたいという中小私鉄もなかったようだ。5000系は78系の面影とともに、すっぱりと消えてしまった。クーラーの効いた車内で青空を眺めつつ、甲高く大きい独特な吊掛音に身を任せることができなくなったのは、大変残念である。しかしどうも私の中では、ナナハチの印象が強すぎて、5000系への興味は最後まで今一つだったようだ。気が付けば、首都圏の吊掛車はJR、東急、小田急、京王帝都、西武、京急、営団地下鉄、新京成など姿を消しており、東武5000系電車は、首都圏の鉄道線で最後に残った車であった。

 
 
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