5700系 フォトギャラリー
団臨主体に活躍した57系の軌跡は日光・伊勢崎線が中心でしたが、ここでは私のホームグランド東武野田線での姿を纏めました。
東武野田線は普通列車ばかりの平凡な路線ですが、たまに古色蒼然とした57系団体電車が現れました。昭和50年から半鋼製車が居なかった野田線ですから、こんなときはマニヤだけでなく、一般客も「うわっ 随分古い電車だ!」と、驚いていたものです。
以前は東武鉄道主催の団体旅行が割とありました。「鬼怒川温泉1泊2日の旅 お申し込みは〇〇駅へ」という手書きのポスターを改札口でよく見かけたものです。このように各駅で募集されたお客は、駅から57系の団体専用列車で鬼怒川温泉に向かいました。この手の温泉旅行掲示は、インターネットなどが無い時代、57系が野田線に入線するという大変に貴重な情報源でした。野田線駅の事務所内には黒板があり、運転当日は「カス-オオ 臨回5832レ 9:53、オオ-カス 臨5833レ 10:24」などと記入されているのを改札口から確認して撮影に備えました。野田線への57系入線は、年に30回くらいあったものと思われます。稀に、1日に57系が2本野田線に入線した日もありました。編成は6連が多かったですが、4連のときもありました。運転区間は、団体募集が行なわれた駅にあわせて設定されており、野田線のダイヤには予定臨のスジがたくさん引かれていました。但し、線路容量に余裕が無かった柏以東への入線は少なかったように思います。特に、朝方柏から船橋方に回送で持ってゆくのが厳しく、パターン化された定期列車のスジが無理矢理ずらされて、57系予定臨のスジが1本引いてありました。団臨が通る各駅では「臨時電車」「回送電車」という案内でした。大宮駅で回送待ちで停車している57系車掌さんに「乗せてくれー」と頼んでいる一般人の中年男性を見かけた事があります。野田線団臨は基本的には、往路は午前中、復路は夕方でした。客扱い時のみ「たびじ」のヘッドマークを掲げました。
DRCや6000系、18などが居る本線では、これに負けじと飛ばしていた57系団臨でしたが、野田線内では定期列車を追い抜く事は勿論なく、各駅の通過時には徐行し、デッカーの歩調に合わせてのんびりと温泉客を乗せて走っていました。
野田線に57系がやってきた!
大和田-大宮公園
昭和62年6月6日
5703-703-5701-701-5700-700
臨回5351レ
「ゴゴゴゴ」と通りすぎて行く。
モハ5701
美しい57系!
あっという間に通り過ぎて行く。
上記4枚は何れも昭和62年6月6日
大宮駅にて暫し回送待ち
昭和62年11月6日
モハ5701
57系臨電は、大宮駅では必ず2番線に入線した。
温泉客を野田線各駅まで「快速たびじ」で連れ帰った後、大宮駅で回送まで10分程度停車していることが多く、一般客から(ずいぶんボロい電車だ!)と、衆目を集めていた。
当時、この57系に乗れると思った一般客は、さすがに殆どいなかった。
秋の落日迫る野田線を走る57系
大和田-大宮公園
昭和63年11月10日
700-5700+705-5705
臨5876レ
野田線の団臨は6両が基本だったが、たまにお客が少ないと、このように4両編成の時もあった。夕日の反射から、57系も78系と同じく半流の車体であったことが良く判る。
5700系快走
大宮公園−大和田
昭和63年12月21日
701‐5701+703-5703+704-5704
臨5787レ
この当時、毎年12月20日前後は野田線沿線各地で東武鉄道主催の鬼怒川温泉旅行ツアーが設定されており、撮影に気の抜けないシーズンであった。そのような時節は年に何回かあった。
はるばる高柳にやって来た57系
高柳駅
昭和63年12月22日
クハ700 ほか6連
臨5265レ
鬼怒川温泉旅行の温泉客を連れ帰ってきた57系。
当時の船橋線は単線区間が多く、昼間も定期列車で目一杯で、柏以東に臨電が入るのは大変だった。いかにも東葛地区らしい雰囲気の、狭くてホームの曲がっている高柳駅にて。今も昔も高柳駅では、日中の定期列車の全てが交換するため、定期列車の撮影が困難だった。3000系をこの駅で撮りたいと願っていたが、叶わなかった。反面、臨電の交換はなかったのである。冬至近くの日差しは低く、昼過ぎであったが下回りが陰ってしまった。
東武の旧型車 Top
Top