東武6000系の思い出 徒然なるままに
車両や運転面で単調な東武野田線の沿線に長く住んでいたこともあって、いつも本線は、野田線の春日部駅から垣間見るだけのことが多かったが、伊勢崎線トブコ以南は別世界の様に思っていた。私が6000系に初めて乗ったのは昭和59年8月11日で、会津田島への旅行時であった。この頃は野田線単線区間が20分ヘッドだったため、春日部駅には快速の発車時刻より大分早めに到着した。快速が来るまで、下りホームで準急の78系列車などを眺めつつ、遂にやって来た新藤原行き快速6000系電車。57系と同塗色の6000系を間近に見た感激は忘れられない。
しかし6000系は非冷房で、夏の6000系は暑かった。6000系は今の6050系よりも11編成も少なく、多くの快速は4両編成であった。この日はシーズン中だった事もあって混雑しており、しかも立客の多くはリュックを背負い、車中は賑わっていて余計に暑かった。この頃は東武も国鉄も、非冷房車が当たり前の時代。快速で冷房が付いていないのは文句が出るほどでもなかったが、他私鉄の同等列車で非冷房の車はさすがに少なかったようだ。車内はデッキは無かったものの、らくだ色のクロスシートがずらりと並び、室内燈にはカバーが掛けられていて、優等車であることを主張していた。旅客の操作できる扇風機スイッチが壁の所々に設置されており、非冷房の国鉄近郊型電車と似ていた。当然、嘗ての国鉄急行型もそうだったのだろう。真夏のこの日、扇風機はもちろん全て回っていた。窓はどこも全開で、列車の騒音と暑い風が容赦無く侵入した。
現在の6050系電車は誤乗防止のため、車内端部にも行先の幕式表示器が設置されているが、6000系にもこのさきがけとなるような、「日光線」「鬼怒川線」というひっくり返し式の簡単な表示板が設置されていた。
この頃本線の準急は、78系や5000系がたくさん居た関係で設定速度が遅く、8000系といえども、準急は流して走っている感じであった。そんな中で、あずき色で地味な6000系快速は、見かけによらず流石に早かった。何かの単行本で「6000系は東武日光線の名脇役」という記述を見たことがあるが、当にそんな感じであった。
本線沿線の踏切で列車の通過を待っていると「バタッバタバタッバタバタッバタバタッバタ」 あっという間に快速6000系の4両編成列車は通過して行くのであった。
野岩線開業前の下り快速は、下今市から日光へ行く旅客の方が多かったような気がする。鬼怒川線に入って行く旅客も、殆どの人は鬼怒川温泉駅で下車したものだった。会津方面には、鬼怒川温泉駅から田島行きの会津乗合自動車のバスが出ていて、運賃は1700円だった。このほか、白タクも散見された。新藤原駅前の国道には会津乗合自動車のバス停があったが、終点新藤原まで乗り通す人は僅かであった。新藤原駅は、6000系が始発で出発してゆく、静かな駅であった。現在よりも10mほど上り側に、下野電気鉄道時代以来と伝えられる小さな古い駅舎があり、乗車券自販機のような無粋な機械も無く、駅員さんが硬券を売るローカルな終点駅だった。
昭和60年から6000系は更新が始まり、冷房も付いてすっかり綺麗に生まれ変わった。最初は6050系を珍しく思って喜んだが、あっという間に更新が進み、6000系は姿を消してしまった。
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