東武7800系の思い出 徒然なるままに

 昭和50年代後半まで、首都圏の国鉄私鉄各線には半鋼製の通勤電車が残存し、鉄道マニヤを楽しませてくれた。西武線や東急線、営団地下鉄銀座線には、昭和50年代後半まで吊り掛け式の半鋼製車が数多く活躍していたが、我らの東武鉄道には、73系と78系という半鋼製の吊り掛け通勤車が最後の活躍をしていた。
 73系と78系、多くの車は昭和30年代の登場で特段古い車ではなかったのであるが、傷みが激しく老朽化していたのが印象的であった。30年前とはいえ、かなりのボロ電車であった。東上線には73系の配置が多く、日光・伊勢崎線には78系の配属が多かった。これらの旧型車は現在の東武800系のように、本線のローカル区間で細々と使われていたのではなく、浅草・池袋口で当時の8000系とほぼ同様に、第一線で運用されていた。筆者の知る時期にはナナハチの更新が進捗しており、車令の高いナナハチは5050系に更新されてしまっていたが、それでも駅で暫く眺めていると、78系の列車はかなり頻繁に見ることができた。ちょっと前の伊勢崎線でいえば、8000系のような頻度でやって来たものだった。
 その頃本線では、残存78系の配置が館林研修区と新栃木研修区に偏ってきていたことから、見かけるナナハチは準急運用が多かった。しかしそれでも新栃木研修区の7870型は、3070系に混ざって日光線北部のローカル各駅運用も受け持つなど、各駅の運用も残っていた。春日部研修区にもナナハチは少数残存しており、昼間、北春日部の車庫では数編成がよく留置されていたのが見られた。ときおり伊勢崎線の各駅停車でやってきたナナハチは、春日部研修区の編成だったのかもしれない。

 野田線沿線に長く住んでいた筆者は、 伊勢崎線や東上線というのはにぎやかな別世界であった。勿論、車種の豊富さは、半蔵門線との相互直通運転が行なわれている現在に及ばないが、レパートリーは30年前の方が広かった。伊勢崎線を垣間見ようと、春日部駅まで野田線のデッカー3000系に乗って、用も無いのに乗りに行ったものだ。私が知っている本線は、つい最近の昭和50年代後半の姿であるが、この当時の伊勢崎線は本当にわくわくした。筆者にとってナナハチは、鉄道趣味を始めた頃には既に半数以下に減っており、趣味的な眼で観る事が出来た機会も少なく、もたもたしているうちに全廃されてしまった。乗車経験も限られておりナナハチを語るなど、全くもっておこがましいのであるが、私もこの当時の東武伊勢崎線とともに78系を回顧してみたい。
 昭和50年代後半の東武本線。あこがれの8000系はまだ全車セージュクリーム色で、各停や準急でモーター音も軽やかに快走していた。新鋭10000系はまだまだ少数派で、乗車する機会など、めったに訪れなかった。地下鉄直通の2000系は、電気ブレーキ音も豪快にやってきた。営団3000系の走行音はおとなしかった。あずき色の6000系は4連で時たまやってきたが、国鉄電車でいえば急行型で、少々敷居は高かった。DRCや18は、カスやトブコなど目もくれずに「タタン、タタンタタン、タタンタタン...」と通過して行き、孤高を守っていた。時たま、トキやタキを牽いた貨物列車や、団臨用57系も姿を見せた。
 そして準急といえば、古豪ナナハチがやってきた。「準急、東武宇都宮行きがまいります」、「準急伊勢崎行きがまいりまーす」という駅のアナウンスがあると間もなく、「ゼーーー」という鋳鉄シューの音を高らかに響かせて、古色蒼然としたナナハチがホームにやってきた。正面脇には菱形の「準急」表示板を誇らしげに付け、中央におなじみの行先板を見せつつ、ブタ鼻ライト、深くて黒い屋根は傷み、べこべこに歪んだ外板とシルヘッダー、クリーム色の中に錆びが浮いた車体、鋳鉄シューのブレーキ音を「ゼーーーー」と響かせながら停車するというのが、ナナハチを外から見た印象だった。車内に入れば、高い天井、当時標準だったラクダ色シートと、くすんだ木の床が広がっており、ボロいが非常に温かみのある雰囲気だった。73系、78系の特徴だった木の床は、都心部で乗れる電車では最後の形式だったと思う。木の床は末期であったためかあまり手入れがされておらず、白っぽく乾いており、木目もくっきりしていた。油はあまり引かれていなかった車が多く、旧型車独特のあの油の臭いはうっすらであった。室内燈は蛍光灯で、パラパラとまばらに配置されていた。8000系初期車より蛍光灯は少なかったので、車内は明るくなかった。3000系程度だったろうか。
 昭和59年の夏、春日部駅で電車を見ていると、下り各駅停車でナナハチが「ゼーーーー」とブレーキ音を立ててやって来た。DRCか急行りょうもう号の通過退避のため、春日部駅4番線に入線したボロい編成だった。車番は忘れてしまったが、この編成のクハ800型(クハ820型か)のCPがへたってしまっていて、これは大変印象に残っている。ナナハチが装備していたD-3-FRは5000系や5050系に継承され、8500型若番車や中間車改造されたサハ8700型も装備しているため、若い東武ファンの方でも車両マニヤならば、その動作音は良くご存知であろう。「こんぷこんぷこんぷこんぷ」という動作音、正常ならば大体1秒間に4往復くらいのペースである。しかしそのナナハチのCPはへたってしまっていて、「ウオーウ、ウオーウ」と、1秒間に1回くらいしか回らないのであった。しかもそれは正常品よりもかなり大きな音で、老齢のナナハチはあたかも苦しそうに感じられたものだ。そんな調子では、いつになっても圧縮空気は溜まらず、デラ待ちの間、そのナナハチはずっと苦しそうに「ウオーウ、ウオーウ」と唸りへばっており、居たたまれない気分になった。外観の全てが朽ちていた古豪7800系、5000系への更新が真っ盛りの時期で、(更新間際だったので修理されず、放っておかれたのであろうか...) などと、当時思ったものだ。
 当時、ナナハチの更新は急ピッチで進められており、杉戸工場の北側(長期に亘って57系が幌を被せて留置されていた辺り)では役目を終えた73系、78系が続々と解体されていた。鉄道ダイヤ情報 vol. 35, No. 3, p. 44 (2006)には、ナナハチ更新にあたっては主要部品を西工で取り外し、杉工まで回送のうえ車体を解体した、という内容の記述がある。杉工での解体作業は6000系まで行なわれたが、その手法は面白いものだった。車体の窓枠下部辺りをぐるりとバーナーで焼き切ってしまい、蒲鉾を切る際、板と平行に包丁を入れて蒲鉾をはがすような感じで、車体を真っ二つにしてしまうやり方だった。近年キタニへ搬入されている、車体中央で真っ二つに切られた車体に一脈通じる所があるが、当時のやり方は車体上下で真っ二つにするもので、切られた車体だけ見ると、あたかも津波によって土砂に埋まった電車のように見えたものだ。杉工裏では平日であれば、アセチレンバーナーの紫煙が立ち込め、床などに使われていた木材も焚き火で燃され、こちらからも紫煙があがっていた。その傍らには、解体待ちのナナハチが1〜2両留置されていて、遣る瀬ない気持ちであの長い踏切を渡ったものだ。筆者には、解体待ちのナナハチは最後の光を放っているように見えたものだ。
 3000系に夢中だった筆者は、それほど足繁くナナハチに乗りに行った訳ではないが、昭和60年(1985年)に入ると更新の進捗で両数が減り、伊勢崎線・日光線では7800系を見ることができなくなった。ナナハチが最晩年に活躍したのは東上線小川町以北と越生線で、陣容は本線からの異動組を加えた7870型であった。昭和60年の春から夏にかけては、川越線のキハ35と東上線の8000系を乗り継ぎ、よくナナハチに会いに行ったものだ。本線にいた筆者お気に入りのモハ7875も、森林公園研修区に異動しており、越生線で最後の対面ができた。越生線は駅間距離が短く、伊勢崎線準急のような高速運転は少なかったが、坂戸−一本松間など、甲高い吊り掛け音を聴くことが出来た。同線は昭和60年春頃には78系の運用が殆どだったが、夏頃には更新が完了に近づき、残存のナナハチが僅かとなったため、7870系と5050系の両方が運用されていた。更新前後の車の両方に乗ることができたが、更新というのは本当に味気ないものかとつくづく思った。しかし5050系は冷房完備で、明らかに一般利用客の評判は上々で、暑くてボロい7800系の評判は良くなかった。
 ここで、この頃に気が付いた点である、7800系と5000系の主抵抗器の違いについて言及しておきたい。東武越生線は坂戸駅を出発すると、ポイント通過後、左に線路が大きくカーブして東上線と離れてゆく。このカーブを通過する際、ナナハチは直列最終段のまま吊り掛けモーターを「ウーン」と唸らせたまま通過していったのであるが、これに対し、5050系の同区間の運転では、直列最終段ではスピードが出過ぎてしまい、いったんノッチオフにして惰行で転がしてゆくのだった。要は、運転手が直列最終段にマスコンを操作すると、7800系より5000系の方がスピードが出てしまうのである。この原因は、制御器の限流値の違いではなく、7800系の更新ではナナハチの主抵抗器は5000系に継承されなかったことにあると思っている。5000系は新製の主抵抗器を使用しており、この際に容量変更か、つなぎ変更などが行なわれたのではないか。
 東武7800系電車は、末期には車齢の割に老朽化が甚だしく、老骨に鞭打って働いているという印象が強かったが、東武線を勇ましく走りぬける姿には当に心を奪われた。ナナハチは、昭和50年代後半まで東武伊勢崎線、日光線や東上線で普通に見る事のできた、沿線でおなじみの古い通勤電車だった。ナナサン・ナナハチが東武線から姿を消したとき、私は何か漠然とした空虚感を感じたものだ。ナナハチの存在感はとても大きく、東武の車両史のうえでも、明らかなる一つの区切りでもあった。
 ナナハチは当時、ナナサンと共にその色調から、「カステラ」という愛称をマニアから頂戴していた。一般客からは「木の電車」などとも言われ、走行中に床の節穴から線路の砕石が見えることなど、そのボロさは沿線住民からも驚嘆をもって受け止められ、泥臭い東武沿線のイメージを醸成する根元でもあった。沿線の人々の脳裏には、ボロいナナハチは未だ淡い記憶を留めているようだ。しかしその端正な出で立ちは、駆け出しの東武マニヤには、矢張り限りなく美しかったと言わざるを得ないと思っている。 (未完)

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