鳩ヶ谷線
大正期から昭和初期にかけて、各地では大規模水力発電所が建設されました。水力発電所で発電された大電力は154kVで長距離送電され、系統ごとに首都圏近郊の154kV変電所で66kVに降圧されていました。各154kV変電所の二次側66kVを連繋した東京内輪線が昭和10年に実現し、事故時には電力を融通して威力を発揮しました。戦後、275kV外輪線が整備されたことから東京内輪線は解消、分断され、66kVローカル線に格下げされました。東京内輪線は、複数の送電線を連繋した国内最初期のケースで、日本の送電史から特筆される事項です。
首都圏の66kV送電線のうち、東京電燈の被合併会社が建造した鉄塔は、背が低く華奢であったためか昭和40〜50年代には殆ど建替えられて姿を消してしまいましたが、旧東京内輪線の原形鉄塔は各地で割と残りました。鳩ヶ谷線は、その東京内輪線を構成していた送電線のひとつで、原形鉄塔はいかにも古臭い形態が特徴です。プレートに記されている建造年は大正15年12月とされており、東京内輪線が完成するかなり前に建設されたようです。「東京電燈五十年史」には、この鉄塔の建っている川口市新郷地区では既設の鉄塔を使用したとの記載があります。しかし、旧東京内輪線の鉄塔は、相武線や舟渡線など他地区の原形鉄塔も鳩ヶ谷線鉄塔と同じ形態のものが多く、プレートに記されている建造年も実は余りあてにならない所があり、この鳩ヶ谷線鉄塔が内輪線以前の鉄塔か否かは現時点では断定していません。
歴史と由緒のある鳩ヶ谷線は、10年ほど前から断続的に建替えが行なわれ、原形鉄塔は平成19年夏に消滅してしまいました。
最後まで残った鳩ヶ谷線の原形鉄塔9号
この最後の原形鉄塔のみ、すらりと高く、周囲を見まわしているようです。嘗てこの地を猪苗代旧幹線が通っており、これを跨ぐ必要があったためです。
数年前まではかなり錆びて真茶色の鉄塔でしたが、最晩年に綺麗に塗装されて、若返っていました。ぐるりと東京を囲んでいた東京内輪線送電線の残党でした。
平成19年4月撮影
数ヶ月ぶりに同地を訪れると、数年前に建替えられた鳩ヶ谷線10号鉄塔が公園の中からひょろりとのっぽに背が伸びていました。隣接する筈の、背の高い9号鉄塔の姿は見えません。嫌な予感は的中してしまいました。10号鉄塔をかさ上げることで、9号鉄塔は廃止されたのです。写真には、背高のっぽとなった新々10号鉄塔が見えています。
これで鳩ヶ谷線の原形鉄塔は全廃され、内輪線の東半分を構成する線からは原形鉄塔が消えてしまったことになります。
平成19年7月29日撮影
なお、東京内輪線の分割に際して、鉄塔番号をNo.
1からリナンバーした送電線と、内輪線の原番号をそのまま踏襲した送電線がありました。鳩ヶ谷線はNo.
1からリナンバリングされているのに対し、後続の足立線、及び先行する宮前線は原番号が踏襲され、宮前線にさらに先行する舟渡線はNo.
1から振り直されており、敢えて互い違いにする処置が採られたようです。内輪線時代の原形鉄塔が全く残っていない送電線でも、原番号を踏襲する送電線ではその番号の大きさから東京内輪線の面影を見る事ができましたが、近年、内輪線原番号を名乗っていた送電線でも、No.
1からリナンバーされるケースが出てきており、内輪線の時代は遠くになりつつあります。
鉄塔Top